甲子大黒天
 現代はとかく時間に追われる生活です。寝不足気味で起きたと思ったら、あっという間に暗くなってしまいます。休日といっても、なかなかのんびりはできないのではないでしょうか。私達には静かに流れる時間が必要なのだと思っています。日常の生活では時間があってもテレビをつけてしまい、静かな時間を阻害してしまいます。現代社会にあっては静かな時間を求めようとすれば、日常から離れた非日常の世界を目指さなければならないのかもしれません。
 


 お寺の雰囲気などはまさに非日常の世界です。そういった雰囲気のなかで静寂に身をゆだねるのもいいものです。そういった時間を持つことによってストレス社会で疲れた心を癒すことができるのではないかと思うのです。
 


 そして、私達には忙しい生活のなかで棚上げしている様々な思いがあるはずです。いつも頭の片隅にありながら、なかなかふれることのできない自分の思いに気付けるのも静かな時間のなかでこそなのです。まさに静寂のなかで自分と対話をするわけです。人生を考える楽しみこそが、大人としての上質な時間なのではないかと思うのです。
 


 今年の4月から当山では写経法話体験を実施いたします。法話にて書いていただくお経を解説してから、写経をしていただきます。そうすることによって、より写経に親しめ、いろいろなことを考えるきっかけになるのではないでしょうか。非日常の世界で心おだやかな時間を過ごされてはいかがでしょうか。機会がありましたら、ぜひ体験してみてください。





写経法話体験
場所    小野川温泉 甲子大黒天本山  
受付    午前9時より午後4時まで随時受付
人数    お一人様より
所要時間  約40〜60分
御奉納金  1,000円
問い合わせ 電話0238-32-2929




::甲子(きのえね)の大黒さま
2008.04.01:hs-1119:[甲子大黒天]
いつも、ご覧いただきありがとうこざいます。今までこのブログに様々な記事を投稿してきたのですが、「甲子の大黒様」という名前を付けながら、個人的なことばかり書いていたように思います。そこで、今後このブログは甲子大黒天や小野川温泉の情報を中心にしていきたいと思います。また、今まで書いてきた私の個人的な記事は別なブログに移らせていただきたいと思います。


新しいブログのアドレスはhttp://d.hatena.ne.jp/buddhist/です。


坊主のブログという名前です。今後とも二つのブログをよろしくお願いいたします。

::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.07.13:hs-1119:[甲子大黒天]
 最近、人間関係で悩む人が増えているようです。そもそも、人間関係とはどういったものなのでしょうか。私は相手との関係の中で自分は何をするべきなのか、何を言うべきなのかを考え行動することが人間関係だと思うのです。相手との関係の中で自分の役割を意識することが大切なのだと思っています。
 


 生まれたばかりの赤ちゃんは、一人では何もできない「してもらう」ことばかりです。一方的に依存することから、私達の生活は始まります。そこから成長に伴い自分の役割を求めていくようになります。思春期にはお互いの役割を模索しながら、不安になり悩みながら人間関係を学んでいきます。
 


 社会人になれば職場・友人・家族の中で自分が必要とされる役割を作り出す生活です。自分の役割を持つことによって、相手から必要とされる自分を実感することができます。ただ、賢明な読者の方はお分かりだと思うのですが、自分の役割とは相手のわがままを聞くことではありません。
 


 最初のうちは相手の願いを聞くことに終始しがちなのですが、経験により相手にとって本当に必要なものを与えられる人になっていきます。ですから、厳しいことも言えば、あえて手を貸さないこともあるでしょう。また、相手に気づかれず必要なものを与えられるのが理想なのかもしれません。相手が必要とするものを与えられる人には、自然と人が集まってくるのかもしれませんね。誰か一人でもいいから、その人にとってなくてはならない人になれたらと思います。



今日の写真
 植物にも人間にとっても、太陽、空気、水は欠かすことのできない大切なものです。ところが、普段それを意識することはほとんどありません。私達は本当に必要なものほど意識していないのかもしれませんね。お互いになくてはならない相手、しかしだからこそあたりまえすぎてそれを意識していないのかもしれません。普段、意識していないことをあらためて意識してみると大切なものがたくさん見えてくるのかもしれませんね。



::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.06.27:hs-1119:[甲子大黒天]
 こういう仕事をしていますと、お参りも縁なのだとつくづく思うことがあります。縁がなければなかなかお参りもできないものです。仏教ではこの世界はすべて縁によって成り立っていると教えています。人と人との縁によって成り立っているのが私達の生活なのではないでしょうか。
 

 
 縁によって人と出会っては、相手に対して愛情や怒り尊敬や嫉妬といった様々な感情を抱きながら付き合っているのではないでしょうか。喜怒哀楽を繰り返し、ケンカをしては仲直りをしてまたケンカをする、そういうものなのかもしれませんね。
 


 私は人間にとって一番恐ろしいのは無関心になってしまうことだと思っています。自分と結びついているであろう、たくさんの縁を自ら断ち切ってしまうのが無関心ということなのかもしれません。無関心とは自分の喜怒哀楽を否定することだと思うのです。それは自分の心を否定することであり、自分という人間を否定することでもあるのかもしれません。
 


 私達は様々な出会いによって自分の心の世界を広げていきます。自分の心が広がれば広がるほど、そこからたくさんの喜びや充足といった人間的な豊かさを収穫できるようになります。私たちは心の開拓者なのではないでしょうか。自分の心を広げていくために日々の縁を大切にしたいと思います。



今日の写真
 たくさんの小さなの花が咲いていました。私達もこの花のようなものかもしれません。社会という植木鉢の中でみんなで生活しているのです。社会の枠の中でしか生きられないからこそ、一人では生きられないからこそ、まわりに関心を持ち楽しく生きていきたいものです。


::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.06.22:hs-1119:[甲子大黒天]
 仏教では一人の菩薩として生きなさいと教えています。菩薩とは悟りを求める人のことです。では、悟りを求める菩薩は何をすればいいのかといえば、利他行(りたぎょう)を積みなさいと教えています。利他行とは相手のために尽くすことです。
 

 先輩の観音菩薩・文殊菩薩・地蔵菩薩・虚空蔵菩薩などたくさんの菩薩は、つねに私達のことばかりを考えておられる。その先輩方と同じように自分のことばかりではなく、相手のことを思い生活しなさいというのが菩薩の教えなのです。
 

 素直に相手の幸せを願うことができれば、自然と怒りや嫉妬、憎しみや不満の心が浄化され、心は清くおだやかとなります。それが菩薩の心なのです。相手を思い具体的な利他行を積んでいくことによって、自分の心を浄化していくことが菩薩の道なんですよと教えているのです。
 

 仏教といえば葬式や御利益というイメージが定着していますが、本来の仏教とはいかに心おだやかに暮らしていくかの教えなのです。仏教ではたくさんの仏様が私達を見守ってくださっていると教えています。そう信じることができるからこそ、心がおだやかになり、心がおだやかになるからこそ、まわりの人にもやさしくなれるのではないかと思うのです。一人の菩薩として生きていけたらと願います。
 


今日の写真
 ご無沙汰しております。忙しく更新できない日が続いておりました。今日の写真はボルジの花にミツバチがとまっているところを偶然撮ることができました。小野川温泉ではほたるまつりが始まり、少しずつ蛍も出てきているようです。ぜひ、小野川温泉に蛍を見に来てください。



::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.06.20:hs-1119:[甲子大黒天]
 現代人は優越感と劣等感の狭間で揺れながら生きているのかもしれません。自分のコンプレックスを埋めるべく努力するのではなく、コンプレックスと同等の自尊心を持ちバランスを保とうとしているのかもしれません
 

 しかし、具体的には何も変わらずに優越感と劣等感を行き来しては、そんな自分がどうしようもなく嫌になり疲れてしまうのかもしれませんね。「友達がほしいvsつまらない連中」とか「認めてほしいvsバカには理解できない」さらには「一緒に笑いたいvsレベルが低い」と弱い自分を優越感で守っているのかもしれませんね。
 

 誰よりも寂しいのに無関心という仮面を被り続けているのかもしれませんね。自分の心にあいた大きな穴を優越感で埋めようとすれば、自分の弱さを見失ってしまいます。今の苦しみが自分の弱さに起因していることを知らずに、苦しみの原因を求めてさまよい歩くことになってしまうのかもしれません。
 

 まわりの人間から完璧を求められながら、誰もが自分の弱さと格闘しながら生きているのではないでしょうか。私達は自分の弱さをまざまざと見せつけられる現代社会で生きているのですから。人間は完全ではないのですから、欠点があり弱さがあってあたりまえです。そのことを他の誰でもない、自分自身が認めてあげなくてはなりませんね。自分の弱さと手をつなぎ生きていきたいと思います。
 


今日の写真
 橋の上から撮った写真です。川はつねにうねりながら流れ続けます。私達もまた様々な感情の渦で揺れながら生きているのでしょうね。それが偽りのない人間の生活なのでしょう。ですから、その感情をうまく導いていきたいものですね。


::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.06.07:hs-1119:[甲子大黒天]
 お釈迦様の悟りをまとめた四諦(したい)という教えがあります。これはお釈迦様の初めての説法である初転法輪の際に説かれた教えなのだそうです。この四諦は苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)の四つの真理を説いた教えです。
 


 苦諦とは、人間の生活には様々な不安があり悩みがあり不満もあれば怒ることもある、それが偽りのない人の生活なんですよ。生きることには必ず苦しみが伴いますよという教えです。では何故、苦しみが伴うのかといえば、それが次の集諦です。人間の生活に苦しみが伴うのは、私達が煩悩を抱えているからであるというのです。煩悩が苦しみとなって毎日の生活に溢れているという、人間の苦しみの根源をあかしたのが集諦の教えなのです。
 


 では、どうすればいいのかといえば、それが滅諦なのです。お釈迦様の悟りとは煩悩を滅した境地であるというのです。煩悩がなくなったからこそ、苦しみが生まれなくなるのだ。それが悟りであるという真理が滅諦です。では、具体的にはどうすればいいのかといえば、苦しみの根源である煩悩を滅するためには善行を積みなさいと教えていらっしゃいます。それが最後の道諦という真理なのです。仏教の教えとは突き詰めていけば「善い人になりなさい」と一言に尽きるのではないかと思っています。
 


 人間は誰しも幸せを求めます。その願いに答え仏教では人間が幸せになるためには善い人になりなさいと教えているのです。どうして、相手を思いやらなければならないのか。どうして、人に迷惑をかけてはいけないのか。どうして、悪いことをしてはいけないのか。その問いに対して仏教では、自分が幸せになるために必要なことなんですよと教えているのです。善行という難しい言葉を使うと、なんだか難しいことをしなければならないような気になってしまいますが。善行とは家族や友人を思いやる日々の心がけが具体的な形となって現れたのが善行なのではないかと思うのです。誰かを思う気持ちを大切にして幸せになりたいと思います。


今日の写真
冷たい雨に耐える蕾です。もう少しで花が咲きそうです。「もう少し、頑張れ」と声をかけたくなります。人間も生活に溢れる苦しみに耐えながら善行を積み、幸せの花を咲かせたいものです。


::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.06.04:hs-1119:[甲子大黒天]
 最近は雨の日が続いています。雨が降ると外出するのも億劫になってしまいます。ですが、地球上にある水の約97%は海水で、私たちの命を支える雨となって降り注ぐ水はわずか3%なのだそうです。雨の多い日本に住んでいると雨のありがたさになかなか気づけないのかもしれません。
 


 一滴一滴の雨が大切なように、私達人間も一人一人が大切な命だということに、なかなか気づけないのかもしれません。私はこの世に必要だからこそ今こうして生きているということに、自分自身もまわりの人間も実感が持てないのかもしれませんね。
 


 家にいれば家族のためになり、仕事をすれば社会のためになる。何気ない一日の生活が他の誰れでもない、自分にしかできない役割なのだと思えれば幸せです。自分の存在理由をいかに頭で考えても証明できないことでしょう。日々の生活の中にこそ存在理由があると思うのです。
 


 「こんなに頑張っているのに」と思えば思うほど、無関心なまわりの人間に苛立つこともあるのかもしれません。人間はあたりまえの日常の中にあるなくてはならない大切なものに、なかなか気づけないものです。感謝されることなく流れ続ける水のように、私も「誰かのために」という思いを忘れずに、自分にしかできないであろう役割を淡々とこなしていきたいと思います。私という存在が誰かの役に立つことを願いながら。



今日の写真
 雨上がり、外に出てみると植物の葉に忘れ物のように雫が残っていました。この小さな雫が集まり川となり海へと続いていきます。人間も大勢の中では小さな存在となってしまいますが、一人一人がこの雫のようになくてはならない存在なのだと思います

::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.06.02:hs-1119:[甲子大黒天]
 今年も鷹山大学での講座が始まりました。1回目の講座が終わってみて、何かを人に伝えることの難しさを実感しました。自分の中にある伝えたい思いのうち、どれだけが言葉となって相手に届いたのだろうか、なんだかもどかしさを感じてしまいました
 

 同じ日本語を話すのに、思いのすべてを伝えきれない、理解できないというのはもどかしいものです。そして、つねに誤解されるかもしれないという不安も会話にはつきまとうものです。「そんなつもりではなかった」とか「あんなこと言わなければよかった」という後悔もよくあるのかもしれません。
 

 若い人は曖昧な表現を多用し、断定を避けるようです。いかようにも解釈できる言葉を使い、誤解されないようにと共感されなかったときの防衛策なのかもしれません。それだけ人間関係に臆病になっているのかもしれませんね。
 

 どれだけ言葉を尽くしても語りきれない思いもあるものです。また、大切なことほど空回りしては伝えられないこともしばしばです。そんな時はどうしようもない孤独を感じてしまうものです。伝えきれない自分、理解しきれない相手、その埋めることのできない溝があることを知っておかなければならないのかもしれません。ですが、そのうえで相手を分析しようとするのではなく、素直に理解したいと思う日々の葛藤の中で、少しずつ相手に近づいていけるのかもしれませんね。



今日の写真
 川辺に立つとても大きな木です。一本の木ではなく、何本かの木が寄り添うように立っています。人間もいつも一緒にいると似てくるといいます。それは同じ時間を長く共有することによって、お互いの溝が少しずつ埋まってくるからなのかもしれませんね。誤解を恐れず、ありのままをさらけ出せる相手がいてくれたら幸せですね。


::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.05.29:hs-1119:[甲子大黒天]
 核抑止力というものがあります。核保有国がそれぞれに地球を消滅させられるだけの核兵器を持ちながら、お互いを牽制することによって結果として核戦争を未然に防ごうというわけです。これは「やったら、やりかえされる」と考えることによって危険なカードが切られることなく、なんとか平和が維持されているようです。
 

 仏教には因果応報という教えがあります。善因善果・悪因悪果という、自分の行いがめぐりめぐって返って来るという教えです。自らが善行を為せば善なる報いを受け、悪行を為せば悪なる報いを受けるというものです。この因果の理法があるからこそ、日常生活で自分を正しながら生きていくことができるのかもしれません。
 

 「自分がしてほしいことを相手にしてあげましょう。自分がされて嫌なことは相手にもしないようにしましょう。」小学校の時によく教えられていたように思うのですが、これが因果応報の教えなのかもしれません。自分の行いがいずれ、自分のもとに返ってくるからこそ、自分の望むことをしてあげましょうというわけです。
 

 さらに「してもらうのを待っているのではなく、まずこちらからしてあげましょう。」ということでもあると思うのです。必ず、その行いは自分のもとにも返ってくるのですから。現代はお互いにしてもらうことを待ち、自分からなかなか積極的になれないのかもしれません。「友達になってほしい」とか「大切にしてほしい」と思いながらも、「まず、自分が」と思えない臆病さがつきまとう時代なのかもしれませんね。
 

 いずれ自分のもとに返ってくると考え、相手に向けての言動や行動を自分の身に置き換えて考えてみることは、相手の気持ちを考えることであり、自分の生き方を考えることにもつながります。日々の生活の中で自分の衝動を抑え善く生きていくためには因果の理法が必要なのかもしれませんね。因果応報、自分の蒔いた種、身から出た錆、自己責任などいろいろな言葉がありますが、因果の理法は日常生活でとても大切なことだと思うのです。



今日の写真
 新緑のこの時期に緑ではなく黄色っぽい新芽をつけた松?を見つけました。なんだかひねくれ者のようで、それでいてかわいらしく写真を撮りました。人間はひねくれ者よりは素直なほうがいいのですが、なかなか難しいものですね。
 

::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.05.24:hs-1119:[甲子大黒天]
 快楽に忠実であれとまでは書けませんが、今は自由に思いのままに生きることが許されている社会です。グルメ、旅行、趣味、服装、思想など自分なりのものを求め楽しむことができます。それなのに無気力の暗雲が立ちこめているのはなぜでしょうか。
 

 「つまらい」とか「しらける」という言葉をよく耳にします。本来、若ければ若いほど好奇心旺盛なはずなのですが、どうもそうではないようです。なんだか自分の心を圧し殺して生きているように思える人が多くなったように感じてしまいます。
 

 喜怒哀楽をさらけ出し、一生懸命に自分の信じるものを追い求めることが自分に対して、正直でいるということなのかもしれませんね。生活スタイルは思いのままなのに、自分の心は不自由だというのでは本末転倒のような気がします。
 

 自分に対して不正直に生きることは、何よりも辛いことだと思うのです。自分の心を圧し殺して溜めに溜めた感情が爆発して起こる、悲惨な事件がたくさん起こっています。これからの時代に求められるのは物質的な満足よりも心の充足なのではないでしょうか。自分の心を解放し、いつも思っていることを我慢せず口に出し、もっと自分に対して楽に正直に生きていきたいと思います。



今日の写真
 終わりかけなのですが菜の花の写真です。植物は動くことができませんから不自由そうなのですが、実際は動く必要がないだけなのかもしれません。私達人間は心身共に自由に動き回るために感情があり手足があるのでしょう。ならば思いのまま自由に生きていきたいものですね。



::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.05.18:hs-1119:[甲子大黒天]
 仏教には中道という教えがあります。お釈迦様は王子としてこの世に生を受けられました。ですから、29歳で出家されるまでは王子として何不自由のない生活をされていたのかもしれません。しかし、出家されてからは難行苦行の厳しい修行をなされました。
 

 ですから、お釈迦様は相反する極端な生活を経験されたのです。しかし、お釈迦様は厳しい苦行の中で悟りを開かれることはなかったのです。そこで供養の食事を得てから、菩提樹の下で瞑想に入られ悟りを開かれたのです。
 

 その経験から中道という教えが生まれたのかもしれません。中道とは何事も極端に傾いては得るものはなく、苦しみだけであるというのです。私達の生活でも仕事と家庭、道徳と損得、感情と理性、食事と運動、収入と支出など、すべてバラスが大切になります。このバランスをいかに保つかが大切になります。
 

 現代は何事も極端に引きずられやすい時代です。過労死は仕事と休息のバランスが、犯罪は道徳と損得のバランスが、成人病とは食事と運動のバラスが崩れることによって起こるのかもしれません。日本の社会には私達の行動や考え方が極端に走らないように制限する道徳という名の防波堤がありました。その防波堤が崩れつつある今、私達は自分なりの防波堤を作らなければならないのかもしれませんね。何事も誘惑や狂気に流されないように、程々のところで満足し自分の中の天秤を安定させることが、現代社会を生きていく秘訣なのかもしれませんね。


今日の写真
 桜の季節が終わった頃に咲き始める八重桜の写真です。当山にはこの八重桜の並木があり参拝に来られた方を出迎えています。



::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.05.15:hs-1119:[甲子大黒天]
 親学という言葉が登場しました。その内容を読んで「ここまで来てしまったか」というのが率直な感想です。人として生を受け大人になったならば、自分が育ててもらったように子供を育てる。この自然の営みに資格や適性が問われることはなく、誰もがあたりまえにおこなってきたことでした。しかし、ここにきて自分勝手に子供を育ててもらっては困るからとマニアルが登場したわけです。政府が家庭生活に介入すべきか否かの議論よりも、ここまでしなければならない時代なのだという危機感を持たなければならないのかもしれません。
 


私の住んでいる市の「子ども憲章」の一部を掲載します。
1、善悪の区別がわかり、正義を愛する心を育てましょう
1、他人の迷惑や痛みがわかり、おもいやりの心を育てましょう
1、自分の夢や目標をもち、絶えず努力する心を育てましょう


 この憲章にある「育てましょう」というのは誰が育てるのでしょうか。学校で問題や事件が起こるたびに教育委員会や教師が責め続けられてきました。しかし、学校には任せておけないから人間的な教育は家庭でおこないましょうという気運が高まることはありませんでした。今回の親学は、その第一歩なのかもしれません。親は学校に子どもの教育を任せ、学校は躾は家庭でと、いわば子供の押し付け合いをしていたのかもしれませんね。地域は子育てに介入できずに、社会の中で子供が放置されていたのかもしれません。
 


 子供の社会生活は幼稚園から始まります。良くも悪くも子供はまわりの子供から強く影響を受けるものです。幼稚園に通うようになり、教えたことのない汚い言葉を使うようになったり、急に行儀が悪くなったと感じることがあるかもしれません。お受験のある一部の幼稚園を除けば、保育料や保育時間を選べても、同級生の子供を選ぶことはできません。だからこそ、すべての子を持つ親が子育てについて真剣に考えなければならないのかもしれませんね。ファミレスや映画館など親子連れの集まる場所にいきますと、そのことを強く意識させられてしまいます。
 


 いかに学校を改革しようとしても成果をあげるのは難しいでしょう。大切なことは子供達ではなく大人達が「子ども憲章」にあることを実践することなのかもしれません。自分にできないことを子供に伝えることはできないのですから。教育改革とは子供の問題ではなく、私達大人の問題なのかもしれませんね。
 


今日の写真
 少し前の写真なのですが、木蓮のつぼみです。今はもう咲き終わり散り始めています。本当にあっという間に時は移ろいゆくものですね。子供もあっという間に大きくなっていきます。だからこそ手をかけられる時期を大切にしなければならないのかもしれませんね。

::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.05.12:hs-1119:[甲子大黒天]
 仏教には一切皆苦という教えがあります。この世は苦しみに満ちているという、私たちにとっては不都合な真実なのかもしれません。娑婆という言葉があります。「娑婆の空気はうまい」などと使われますが、もともとは仏教用語でして耐え忍ぶ地、忍土といった意味があります。この世に生を受けたならば忍の一字をもって耐えなければならないことがたくさんあるということなのかもしれませんね。
 

 最近は離婚後300日問題や夫婦年金分割がはじまったりと離婚数の増加に対応するかのような、または扇動するかのようなご時世です。役所に婚姻届をもらいに行くと「初婚ですか」さらに「ご両親は離婚されていますか」と確認されるそうです。それだけ離婚が日常化しているのでしょう。
 

 「理想の結婚生活とは違ったから」、「望んでいた仕事とは違うから」、「友達だと思っていたのに」となかなか忍の一字を保てない時代なのかもしれません。理想と現実には絶えずギャップがあるものです。現実は思うようにならず、時に残酷なものです。仏教の説く一切皆苦とは、そんな現実だからこそ辛くて苦しくてあたりまえ、だからこそ耐え忍ぶ覚悟を持って生きていきましょうということなのでしょう。
 

 辛く苦しい時、人はその苦しみから解放されることを求めます。しかし、この世は苦しみに満ちている世界です。たとえ目の前の苦しみから逃れても、次の苦しみさらなる苦しみがやってくるものです。だからこそ、目の前の苦しみに耐えなければならないのかもしれません。仏教では幸せも不幸も喜びも悲しみも自分自身が作り出すものだと説かれています。自分が作り出す苦しみに耐え、それを乗り越えた先にこそ心の平安があると教えています。そのことを信じ、目の前の苦難にじっと耐えることも大切なことなのでしょうね。



今日の写真 
今日の写真は新緑の美しいうこぎです。地元では昔から生け垣にされ、また食用にもなります。最近は様々な商品化もおこなわれているようで焼酎にもなっています。この植物には写真でもわかるようにトゲがあります。私達の人生もイバラの道であり、歩くたびにトゲが刺さり痛みを我慢しながらの生活なのかもしれません。ですが、その痛みの先にあるものを信じられるからこそ今を耐えることができるのかもしれませんね。

::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.05.08:hs-1119:[甲子大黒天]
 仏教の特徴の一つに創造主を立てないということがあります。他の宗教にはこの世界の創造神話があるのですが、仏教にはありません。仏教ではこの世界には始まりもなければ終わりもない、この世界はすべて縁によってつむぎだされていると考えます。
 

 お釈迦様の教えに諸法無我というものがあります。縁によって成り立つこの世界の中に自分のものなど何一つないというわけです。たとえば自分の命でさえ「私の命だから」とは考えません。この世に生を受けたのは両親がいてくれたからであり、その両親にもそれぞれに両親がいて、いわば受け継がれてきた命であり自分だけのものではないと考えます。また、両親や親戚、先生や上司、そして友人などと様々なご縁によって出会った人のご恩によって、生かされているのだと仏教では教えています。
 

 また、毎日食べているご飯も自分が働いて得たお金で食べているとしても、買い物に行ってくれるお母さん、スーパーの人、運送の人、農協の人、農家の人、さらには大地、太陽、雨などの様々なご恩をいただいて食べさせてもらっているのだと考えます。この世のすべてのものはご縁とご恩によるいただきものなのだと仏教では教えています。よく掛け軸になっている「本来無一物」という言葉も同じ意味だと思います。
 

 現代は欲望の渦の中で生きているようなものです。あれも欲しいこれも欲しいと欲望を刺激されては、たくさんの物を抱え込もうと必死になってしまいます。しかし、欲望の世界から一歩離れ、ご縁とご恩の世界で生きることができれば感謝の心と共に心おだやかな生活を得ることができるのかもしれませんね。


今日の写真
 道端にタンポポが咲いていました。誰かが世話をしているのではなく自然に芽を出し花を咲かせる、可憐でありながら力強いタンポポの花に励まされたように感じました。

::甲子(きのえね)の大黒さま
2007.05.01:hs-1119:[甲子大黒天]
  
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